



先日訪れた珈琲豆店主が「珈琲は3回匂いが変わる」という話をしてくれてはっとした。漠然と「珈琲のいい匂いだ」なんて思っていたけれど、確かに、焙煎したとき、挽いたとき、お湯を注いだときでは香りの種類が違う。飲んで美味しい、それだけで充分だが、少しでも何かの視点をもっていることでさらに世界は広がっていく。
3月はいつもそわそわする。人との別れもそうだし、いろいろな物事に区切りをつけやすい時期でもあるから。純喫茶も例外ではなく「閉店」という文字を多く見かける季節。そこがあったから下車していて目的を失って疎遠になってしまう街もある。空白がないと新しいものが入る余裕もないのだからと無理矢理自分を納得させる。
客足が途切れて店主に余裕ができたときなどにぽつりぽつりと始まる会話がある。ちょっとした疑問を投げかけたことから、彼らの学生時代から今に至るまでを聞いたり、数えきれないくらいしたという海外旅行での思い出話を耳に、私も頭の中で各国の市場や港を飛び回ったりする。何かに熱意がある人の話はそれだけで魅力的だ。
計画的であることに憧れるものの、旅や散策はいつもその時の気分で進めてしまい、事前に描いていた通りになることは少ない。けれど、地図から外れて歩いた道に思いがけない出会いがあるのも事実で、焙煎されている珈琲の香りに惹かれてふらっと入った店でのひとときや会話が自分にとって忘れられない一コマになったりする。
続)人によっては、対機械のほうが気が楽だと思うかもしれない。場合にもよるが、帰り際などに交わすちょっとした会話に添えられる笑顔から、店主の想いを垣間見る瞬間が好きな者としては、やはり「人」がいないと寂しい。「珈琲を飲む」、という行為に留まらない付加価値が純喫茶の大きな魅力である、とずっと思っている。
日に日に技術は進化していていろいろなことが便利になるのはありがたい反面、これから「人間じゃなければだめ」であるのはどういう要素が必要なのだろうとよく考える。例えば、簡単な接客、機械で珈琲を淹れること、配膳や片付け、会計も、ロボットによって出来るようになってきている。どちらが良いということでもなく(続
続)好んで訪れている店はだいたい5,60年前に造られていて、外観や内装は過去から続くものではあるが、働く人たちは言うまでもなくを「今」を生きている。故に懐古主義などでもなく、誰かがその良さを伝えることをやめてしまったら、近い未来になくなってしまうかもしれないデザインや技術をただ好んでいるだけなのだ。
正月の散歩中に玄関にある飾りを見て思ったことがある。例えば、その習慣が無くなってしまっても特段影響はないという人も多いと思うが、そうして少数派になって隅に追いやられてしまうと、それを商売としている人やその文化に興味を抱いた人たちにとって、愛でる機会や場所が極端に少なくなってしまうことが多々ある。(続
自分では気づかないような小さな体調の変化を、いつも食べているものの味が違うことで知るときがある。それと同じで、珈琲の香りを楽しめない日は自分に余裕がないバロメーターにもなっている。落ち着くために珈琲を飲むのか、飲むことによって落ち着くのか。どちらにせよ「珈琲」という存在に救われている瞬間が多々ある。
純喫茶に夢中な理由として、「どこにいるかわからなくなる瞬間」を味わいたい、というのがある。例えば、渋谷にある名曲喫茶ライオン。絶妙な明度の青い照明と、どこかで嗅いだような懐かしい匂いが現在位置をあやふやにする。扉の外には日常が続いているが、意図的に自分の内側に入るような時間が癖になるのかもしれない。
出来ることなら、気になる本を読んで、好きな音楽を流してたまに一緒に歌って、その日の気分に合ったお店を目指して、ふぅとひと息ついて珈琲を飲みたい。そんな日々ばかりでないことも分かっているけれど、純喫茶へ行くとたまにどこにいるかを忘れて現実を少し隅っこにやって、ぼんやり気ままな空想旅行ができるから素敵。
生活には度々思いがけない出来事が起きて、感情が揺れたりその対象との綻びが生じたりする。気には掛けながらも適切な距離が良いとは常々思っているが、今度はそのことについて気を揉みすぎて疲れたりもする。改めて純喫茶という場所は素晴らしいなあと思う。あたたくて寛げるのにそしらぬ顔でいつも迎えてくれるのだから。
2023年になった。休みの間もずっと純喫茶のことを考えていた。正しくはそこに紐付く「昭和」の好きな要素について。惹かれるのはどこか気の抜けているところで、生死に関わる選択でなければ、多少の楽観は必要と思える点であるかもしれない。刹那的としても珈琲を飲みながらそんな思考が隅にあるだけでも気が楽になる。
まもなく2022年も終わる。12月は毎年少し緊張する。区切りのよい月ゆえか「閉店」の文字を耳にすることが多いから。純喫茶に限らず、いろいろな事象は自分を通過していくのが世の常と思っている。悲しんでも楽しんでも消えてしまうなら、せめて今までそこにあってくれたことに感謝して、たまに思い出していけたなら。
部屋には、閉店した純喫茶から譲り受けたものがたくさんある。その中のひとつ、珈琲豆のテーブルや椅子もそう。自宅での作業はそこで行うのだが、PCを使用するにはどうも高さが合わない。そこではっとする。純喫茶とは寛いでぼんやりする場所だったことを。そんな言い訳を自分にして、手を止めてのんびり珈琲を飲むのだ。
2016年に「純喫茶、あの味」という本を出版した。明確なマニュアルがある企業の店と違って、個人経営の店は閉じてしまえばその後何かが継承されることは多くない。そんな思いから生まれた本だが、消えてしまうとしてもその記憶がある人たちによって形を変えてどこかで生まれ変わっているのかもしれない、と最近は思う。
「チェーン店やカフェには行かないのか」と聞かれることがあるが、用途や時間帯によってもちろん利用する。単に研究対象が昔ながらの純喫茶であるのでメディアでは特に言及はしないが、それぞれのスタイルの飲食店に敬意を持っている。ただ、日中に30分あって選べるのであれば1軒でも多くの純喫茶を見たいと思うのだ。
混雑していない純喫茶の扉を開けたとき、店内を一瞬で見渡し、どの席に座ろうかすばやく判断するのはとても楽しい。基本的には壁を背に、空間全体を眺められる端の席を選んでしまう。また、先に居た人と視線が合わないような席を選ぶのも自分的には大事。誰かが入ってきた時にその人がどの席を選ぶのか想像するのも面白い。
名曲喫茶は扉を開けるのにいつも緊張する。特に初訪問のお店の場合、自分勝手な振る舞いをしてその世界観からはみ出さないようにしないといけない。適切な滞在時間というものも未だ不明で先日40分程してお会計をお願いしたら「もう帰っちゃうの?」と言われたことがあった。まだまだ学ぶべきことがたくさんあって素敵だ。
都心の賑わうお店とはまた違って、中心地から少し離れたお店でしみじみとその素敵さを感じる時、だいたい常連さんたちの雰囲気も良いことが多い。長い時間その空間やお店の方を愛していて空気のように主張しないのに、ふらりと訪れた一見の人たちを包み込むようなさりげない気遣いに触れるとき、更にそのお店を好きになる。
純喫茶巡りをしている中で聞く、「閉店」という言葉にはなんともさみしい気持ちになる。同じく「移転」という言葉も。建物でも人でも、重ねた年月の分だけガタがくるのは当たり前のことで、メンテナンスが必要となる。分かってはいるけれど、その空間をまるごと持っていけるわけではない切なさに勝手に想いを寄せてしまう。
雑誌の整頓をしていて数年前のものを見ていたら、そこには何度も訪れているのに現在はもう無い店たちが並んでいた。「もしタイムスリップするならいつへ?」という空想をするのはとても楽しいが、紛れもなく今この一瞬が最新で、すぐに過去になってしまうことを思い出した。出会ったらいつでも扉を開けられるようにいたい。
何事も長く続けていると、好きの種類や方向性が変わってくる。例えば訪れたいお店への向き合い方。かつては「喫茶」と名のつくもの全てに足を運びたい気持ちで、そこに焦りもあった。しかし、何度も訪れたいお店も多く日によって行きたい場所も違って、これからも重ねていく趣味なのだからマイペースに巡っていこうと思う。
六本木アマンドの2階へ上がる階段には、アマンドにまつわる懐かしい品々が飾られている。灰皿、マッチ、メニュー表、ちらし、シールなどがあった。その中に「夜のアマンド」というタイトルのソノシートもあって、その歌詞がとても良かったので、当時の六本木に想いを寄せながら珈琲を一杯、のひとときはいかがでしょうか?