



「ずっとそのままで古いだけよ」。素敵だと思ったお店で感想を伝えるとたまに返っている言葉だ。時間が経てば何でも古くなるのは仕方がないことで、積み重ねた日々によって飴色になった空間を、特に純喫茶については好ましく思っている。これから新しく造られるものとはまた違ったそこにある愛しさにずっと魅せられている。
凝ったデザインのメニュー表も素敵だが、店主によって書かれた文字のそれを見つけると愛おしい気持ちになる。例えば、神田 エースでは清水マスターが描いたイラストや文字が店内に散りばめられている。写真は西荻窪 どんぐり舎の入口近くかの2人掛け席の壁に貼られているもの。その味わい深さに見惚れていつも眺めてしまう。
ふらっと入った純喫茶で出会えたら嬉しいのは、「あの」懐かしい占い機。自分の星座に合わせてから100円を入れてぐるりとレバーを引く。カランと音を立てて飛び出してくるまあるいカプセル。小さく折り畳まれた紙にはその日の運勢やラッキカラーが書かれていて、そんな遊び心がいつもの喫茶時間に色をつけてくれるのだ。
閉店してしまったお店から譲り受けたカップたちが増えてきた。カップの数だけ、そこで過ごした記憶と交わした言葉がある。「喫茶 あまやどり」と名付けた自室の喫茶空間でそれらを取り出して、さまざまなお店から取り寄せた珈琲を淹れて口に運ぶ瞬間。今はもうそこになくとも浮かぶ顔と思い出があるだけでじゅうぶん嬉しい。
自分でも笑ってしまうほど、毎日純喫茶のことばかり考えている。例えば、先程は今までに頂いてきた大切なマッチたちをどう保管したら美しく探しやすいかをいろいろと思案していた。写真は新中野にあるエイトのマッチ。こちらをデザインされた小池一夫先生も、通っていらしたさいとう・たかを先生ももう居なくなってしまった。
少し前の台風が過ぎた翌日。気温がぐっと下がって、その日入った純喫茶ではあたたかいウィンナーコーヒーを飲んだ。なんとなくそこから自分にとっての秋が始まった気がする。それまでは条件反射のように「アイスコーヒー」と口をついていたのに今は美しいカップたちが掌の中に。本日10/1は「珈琲の日」。素敵な一杯を。
純喫茶でのマナーについて質問されることがある。基本的には周りの人たちに迷惑をかけなければよいと思うが、その基準は人によってそれぞれ。お店の人の大事な空間にお邪魔しているのだから、想像力が大切だし、配慮が必要だと思う。私は「好きな人や憧れの人に見られて恥ずかしい振舞いをしていないか」を目安にしている。
ふと入った純喫茶で目にしたものが、自分の暮らしのヒントになることがある。例えば、山梨で出会ったお店のカーテン。日中、開けておくために使用するのはなんとなく同布だと思い込んでいたが、こちらは細いチェーンのような金具で留めていた。時間を経て色褪せたそれがとても美しくて、帰ったらすぐに真似しようと思った。
続き)それを純喫茶観察に活かすとすればどんなか考えてみた。残念ながら、店内では天井より高い位置をキープすることはできない。(たまにある吹抜けから下を見るのはとても興奮する)しかし、タイミングによっては隣り合わせる人たちが変わっていくので自分は定点にいても車窓のように見える景色が流れていくのが面白い。
走っている電車の窓から見える景色というものは情報量が多くて面白い。一瞬で過ぎ去ってしまう視界の中から、自分が気になったものだけを切り取っていく。乗車場所や天気、時間も関係して、毎日眺めていたとしても見える画が変わる。徒歩であれば平面が多いが、普段いることのない予期せぬ高さに目線がある興味深さ。(続
元町・中華街で打合せがあり、帰りにホテルニューグランドのザ カフェに寄った。ナポリタン発祥と言われているお店。ケチャップの量や麺との絡み具合、具のバランスも美しく、皿がすぐに空になるさすがの味わい。とはいえ、高級なナポリタンも純喫茶で頂く気楽なナポリタン、どちらも美味しいのがナポリタンの素敵なところ。
続)例えば、珈琲。今は自動販売機やコンビニエンスストア、チェーン店でさっと済ますことも出来る。それでも誰かが時間をかけてじっくりと水滴を落とすのを眺めていたくなる。どれだけ技術が発展して時間短縮できるようになったとしてもその空いた時間を好きなことに費やす贅沢はこれからもなくなったりしないのだと思う。
世の中がすごいスピードで便利になっていく反面、どこか不便だったり手間のかかることを自ら探し求めたりもする。スマートフォンがなかった頃のことをもうはっきりとは思い出せないけれど、待合せをするときに工夫を凝らしたり、手紙を送ったりそういうことをわざわざしたくなると言うのはどういう現象なのだろうか。(続く
純喫茶で食べるカレーライスがとても好きだ。嫌いではない人にとって、カレーはぱっと作っても凝って作ってもそれぞれ美味しいものではあるが、味付けや具材、米のかたさを含め、自分で調理したものと他所で食べるものは全く違っていて面白い。そして珈琲と同じく、誰かが作ってくれたものというのはそれだけで美味しい。
フルーツ、バナナ、チョコレート…。パフェにはいくつも種類がありますが、純喫茶のメニューに「パフェ」とだけ書かれているときは、バナナとアイスクリーム、生クリームだけのシンプルなものが出てくる確率が高いような気がします。重ね方もお店によってさまざま。皆さんが出会えると嬉しいのは、どんなパフェでしょうか?
続き)「純喫茶」という場所が、単に軽食や飲み物を提供するところのみならず、居合わせた人々とのちょっとしたやり取りや、快適で寛げる空間など、そこで得るさまざまな付加価値を含めて居心地のよい時間を提供してくれているから。珈琲、の先にイメージしているぼんやりとした幸せなひとときを無意識のうちに求めている。
暑い毎日。外へ出ればすぐに喉が渇く。適宜水は補給しているが、「珈琲が飲みたい」と思った時はイコール「純喫茶へ行きたい」に変換される。便利な世の中になって、ある程度街中にいればチェーン店もあるし、コンビニエンスストアや自動販売機でも買うことができる。しかし、歩き回ってでも純喫茶を探してしまうのは(続く
「最近は食べないで残す人が多いから」と、クリームソーダやプリンの上から姿を消したお店も多いさくらんぼ。その造形と色合いは大変愛らしく、出会えると嬉しい。サンドイッチに添えられるパセリと同じようなもので、ロスになってしまうのは勿体ないので仕方がないことではあるが、出会ったときには喜んで食べていきたい。
雨が降ったら傘を差すように、気持ちが陰ってしまったら純喫茶へ出掛ける。自室を「喫茶あまやどり」と名付けたのは、一時的に避難する場所をイメージしたことからだった。好きな空間に居ることは少なからず心の平安を保てるし、何より珈琲やソーダ水を目の前にするのは幸せなことだから、その瞬間を増やしていきたいのだ。
自炊する時はいつも、部屋を架空の「喫茶 あまやどり」と名付けて遊んでいます。それは、普段純喫茶に行って席に座っているだけで、出来たての料理が運ばれてくることの有難さを実感するために始めたこと。何でもそうですが、自分でやってみるとその大変さ、熟練した技の凄さに気が付き、ますます純喫茶が恋しくなるのです。
以前、とあるテレビ番組に出演した際、背景のセットを私の好きな要素を詰め込んだ架空の純喫茶にしたいという話があった。最初は喜んで椅子はこちら、壁紙はあちらと提案していたが、どうもアンバランスさを感じる。空間はトータルで見た時の美しさで完結しているのだなあ、とその絶妙なデザインに改めて感動したのでした。
純喫茶でたまに行うひとり遊びについて。珈琲を飲みながら、見るともなく周りを見て気になったものから言葉を連想していき、意味や解釈があやふやなものはその場で検索し、さらにそこから思いついたキーワードへ飛んでいく、という流れ。スタートからすると突拍子もないことに辿り着いていることも多々あってそれが面白い。
何かを美味しいと思うとき、その素材や味付けはもちろんであるけれど、振り返ってみたら「しあわせに感じる時間」がより記憶に風味をつけている気がする。食べ終わってから少し先の、お店を出た瞬間の満足感がそうだろうか。純喫茶の方々はたいてい帰り際に印象的であって、その笑顔を思い出してまた訪れたくなってしまう。
珈琲も、どこか家庭のカレーライスのようなところがあって、人が違えば味が変わる。とある純喫茶で聞いた情報を他で尋ねてみると「うちはそうじゃないなあ…」といった答えが返ってくることもしばしば。取材は大変だし誰かと真剣に話すとぐったりしてしまうけれど、ただ飲食の場に留まらない純喫茶にずっと魅了されている。